桐生は、決して鳴海の技術を評価したわけではない。

 患者が助かったのは運が良かったからであり、鳴海の惧れが現実となった可能性もよく理解していた。



 桐生が高く買ったのは、鳴海の持つ勤勉さ、分析力、注意力、判断力。

 そしてなにより、いのちに対する執着だ。


 目の前で消えかかっている生命を、全身全霊で呼び戻そうとする指先と勇気。

 それさえあれば、技術は後からついてくる。後は経験を積むだけでいい。



 何よりここはアメリカだ。

 日本のように、いつの日か自分に回ってくる手術を待ち焦がれることはない。

 鳴海がその気になれば、すぐにでもチャンスは回ってくる。

 彼を鍛える環境としては申し分ないだろうと、桐生は考えていた。






 全ては――彼がその気になれば、の話なのだが。









 頭の中で伝えるべき言葉を整理して、軽く息を吐く。


 そして、鳴海が所属するラボの扉を、桐生は力強くノックした。

 呼び出しを乞うつもりが、現れたのは目当ての男で、桐生は内心の焦りをひた隠しにした。

 疲れた顔の鳴海は、わずかに眉を持ち上げただけだ。



「こんにちは、ドクター桐生。研究室まで何の用ですか?」

「ああ、報告書を受け取りに来た。それと、君が好きなコーヒーだ」



 わざわざ外科病棟から運び、ぬるくなった紙コップを、鳴海は迷惑そうに受け取った。



「後ほど持参するつもりでした。わざわざご苦労様です」



 書類を取りに、室内へ戻ろうとする鳴海の手首を、桐生が引きとめた。

 一呼吸置いて、考え抜いた言葉を吐き出した。



「生半可な選択じゃないのはわかってるつもりだ。

 君の一生を左右する決断であることも、理解している」



 鳴海はもう抵抗を諦めた様子だ。

 空いているほうの手で温いコーヒーを口に運び、興味の無いそぶりで桐生を見上げた。



「ご理解いただけて、何よりです」



 桐生は鳴海の手首を両手で握り、真っ直ぐその目を見抜いた。

 鋭い眼差しに、鳴海がわずかにたじろぐ。



「決して平坦な道のりではない。後悔することもあるかもしれない。

 だが、私は自分の選択に責任を取る。

 もし――もしも私についてきてくれるなら、私は全力で君を守る。 君の力になる。

 何があっても、決して君を見捨てないと誓おう」



 口に出しながら、これではまるでプロポーズだと、桐生はやっと気づいていた。

 跪いて、指輪を差し出していれば完璧だ。

 だが、それだけの覚悟はあるつもりだった。



「だからリョウ、もしも君に、少しでも外科への興味があるのなら、

 私を信じてついてきてくれないか?」



 なので勢いのまま、最後まで言い切った。



 鳴海は、唖然と桐生を眺めていた。

 それから思い出したように紙コップを咥え、手首にまとわりつく指を、一本一本剥がしにかかった。



「それはつまり――」

『なぁリョウ、その日本人が何を言ってるのか翻訳してくれないか』



 他の研究員だろうか。鳴海の背後、開いた扉の奥から野次が飛んできた。

 鳴海は顔だけ後ろに向け、



『ごめん、僕にも彼が何を言ってるのかさっぱり』 と、英語で答えた。



 それから一歩、桐生から後ずさる。



「ドクター桐生、あなたの熱意はわかりました。

 あなたが心臓外科にかける情熱も。


 ――あれから私も、私なりにあなたの真意を理解しようと努めました。

 あまりにも話が唐突で噛み合わないし、面と向かうと、お互い感情的になりがちなので」



 まずは互いの立場へ一歩だけ、歩み寄る。

 いい兆候だと桐生は考えた。

 寝る前に、説得の言葉をあれこれ考えた甲斐があったものだ。



「あなたがおっしゃりたいことは、結局はこういうことですね?

 “わざわざ米国に留学しているのだから、USMLEくらい取得してもいいじゃないか”」

「その通りだ」



 鳴海の要約に、桐生は我が意を得たりと頷いた。



「その後、また研究職に戻ることだってできる」



 鳴海は笑って答えた。



「まるで旅行スタンプですね。いい記念になりそうだ」



 そして鳴海は研究室に戻り、すぐに報告書を持って現れた。

 それを桐生の胸に叩きつける。

 受け止めそこね、書類が床に舞う。


 鳴海をまた怒らせてしまった。


 ということは理解したが、一体何が怒りの引き金に触れたのか、桐生にはさっぱりわからなかった。



「ドクター桐生、曖昧な返事で失礼しました。

 ここはアメリカだ。あなたの希望にも、明確に返答しなければなりませんね」



 薄い笑みを端正な顔に張りつかせ、一字一句区切るように、鳴海は答えた。






「NO・THANK・YOU.」






 それから桐生の鼻先で、音を立ててラボの扉が閉められた。

 空の紙コップが、カラカラと音を立てて彼の足元に転がる。