次の日、桐生は全く同じ場所で、全く懲りない人影を見つけた。






「リョウ」



 声をかけても、今度は逃げなかった。

 病室に向けていた目で桐生を一瞥し、休憩コーナーの自動販売機を指差す。



「このフロアのコーヒーが気に入って」

「どこも一緒だろう。契約業者は統一されているはずだ」

「少なくとも、メンテナンスが行き届いています」

「いいから来なさい」



 桐生は鳴海の肩を抱くと、目の前の病室のドアを開いた。






『調子はどうですか?』



 桐生の呼びかけに、清潔なベッドの上で、BiVADに繋がれた男が目を開く。



『ああ、ドクターキリュウか。

 ずいぶんといいよ。悪くない気分だ』



 一つ一つの動作は弱々しいが、しっかりした声で応えた。

 五十代後半の若さではあったが、長い闘病生活が彼を老人に見せていた。



『お話した通り、彼が――』



 紹介しようと視線を向けた先に、鳴海の姿は無かった。



 見回すと、背中にいた。

 音も無く桐生の体の陰に隠れ、顔半分だけを覗かせてじっと患者を窺っている。


 桐生は鳴海の身体を、むりやりベッドの前へと押し出した。



『彼が、リョウ――ドクター鳴海です』

『やぁ、こんにちは』



 患者は鳴海を上から下までと眺めると、その背を押している桐生に尋ねた。



『彼は、学生さんかい?』

『……いえ、リョウはちゃんと日本のメディカルスクールを卒業して、研修を終えています』


「ぇ、え――と」



 鳴海は始め躊躇していたが、すぐに笑顔を作り、患者へと手を伸ばした。

 乾燥した右手を強く握る。


 そして、堰を切ったように尋ね出した。


『こんにちは、マクドナルドさん。

 ご気分は? 術創の様子は? 発熱、出血、引き攣れや痛みなどはありませんか?

 弁護士の準備と訴訟の意思は?』



 流暢な英語で、余計なことまで尋ね始めた鳴海を、桐生は慌てて遮った。



「君のことはちゃんと話してある」

『ご覧の通り、あまり動けなくてね』



 ベッドの上の患者は、コードに繋がれた身体を弱々しく開いた。



『だから、君からハグしてくれると、とても助かるんだ』



 戸惑う鳴海の背を、桐生は軽く押した。



「君が彼の命を救ったんだ。

 リョウ、胸を張りなさい」



 おずおずと回された白衣の腕に、患者はしみじみと語りかける。



『話は聞いたよ。

 とても、勇気がいる行為だったね。さぞ怖かっただろう』



 鳴海は術創と駆動チューブに触れないように、礼を言う患者の肩を注意深く抱いた。



『本当に、ありがとう。

 君は私の命をこの世に留めてくれた』
















「主治医が報告書を欲しがっている。カルテのコピーを渡すから、後ほど提出してくれ。

 ミヒャエル教授もわかってくれてね、処分は無いから安心していい。

 緊急時に備え、全体的なシフトも見直してくれるそうだ」



 病室を出た後も鳴海はおとなしかった。

 おのれの掌を見つめる眼差しが、かすかに上気していることを、桐生は見逃さなかった。



「患者の回復を、間近で見られるのは嬉しいものだろう」



 どこか小気味よさそうな桐生の言葉にも、鳴海は素直に頷いた。 



「……夕べは、すまなかったね。

 決して君たち研究者を下に見ているわけではないんだが、確かに少し上から目線のところはあったかもしれない」



 謝罪の言葉に、鳴海は視線を掌から桐生へと滑らす。

 ややして、ぼんやりとした顔が、いつもの皮肉っぽい笑顔をまとった。



「それは素晴らしい。ご自覚があるのは、改善への第一歩ですから」

「一生を左右する選択を、軽々しく口にすべきじゃない」

「Exactly. 珍しく意見が合致したようですね、ドクター桐生」



 桐生は小さく咳払いした。

 他人の悪意に過敏なほうではないが、鳴海の態度が過剰に攻撃的、もしくは挑発的であることを、さすがに理解し始めていた。



「あれから考えてみたんだが――」



 それでも、次の提示に、戸惑いは無かった。



「リョウ、もし君にその意思があるなら、将来的に外科研修プログラムに移ってみてはどうだろうか。

 君には適性がある。研究と試験勉強の両立は大変かもしれないが、自分の研究の時間を勉強に当てるといい。

 君ならきっと大丈夫だ」



 鳴海は、呆然と桐生を見た。

 実験用のマウスが急に人の言葉を喋り出したら、こんな顔になるのかもしれないなと、

 桐生はその表情を興味深く見守った。



「研究を諦めて、外科医を目指せと?」



 桐生は少し考えて、答えた。



「要約すると、そうなるかな」

「驚いたな。病識ゼロ、全く改善されていない」

「今すぐというわけじゃないんだ。研究から臨床留学への移行も、珍しい話じゃないだろう」

「それは最初から臨床を目指している医師の話でしょう」

「途中で志を変える者もいる」

「僕は変えてない!」



 声を荒げたことを恥じたのか、鳴海は「失礼」と呟いて目を伏せた。



「ラボに戻ります。今日は貴重なお時間をありがとうございました。

 彼に移植心臓がなるべく早く巡ってくることを祈っています。報告書はまたのちほど」



 返事も待たずに歩き出した背に、よく通るバリトンがぶつけられる。



「ゆっくり考えてくれ」



 声を受けて、滑らかに歩く足がわずかにもたついたが、鳴海は聞こえなかったフリを通して立ち去って行った。






「アリガトーゴザマス」



 桐生の背中から、日本語と思しきカタコトの発音が聞こえてきた。

 振り向くと、彼を忍者呼ばわりしたレジデントが愉快そうに眺めている。



『あの日本人もニンジャ?』



 桐生は、わずかに口元を緩めた。



『おそらくな』