急な申し出に、桐生は怒りよりも先に面食らった。
同郷の後輩から下手に出られていたら、あるいは庇護欲が勝ったかもしれない。
だが幸いなことに鳴海はどこまでも居丈高だったし、出会い頭のやり取りのお陰で、互いの印象は最悪だった。
「理由は?」
「先ほども言いましたが、私は研究留学生です。
USMLEも受講してなければ、サザンクロス病院と執刀契約も結んでいません」
謎解きのあっけなさに、桐生はわずかに失望した。
研究留学生ということは、米国の医師国家試験(USMLE)を受ける必要性は無く、この国で彼は医師ではないのだ。
臨床留学であった桐生は、そのことをすっかり失念していた。
「万が一――患者に訴訟を起こされれば、病院と私に勝ち目は薄い。
私だけでなく、サザンクロス病院が痛手を受けます」
「リョウ」
「お願いします。ドクター桐生」
「そこまで判っていながら、なぜあの場で開胸処置を?」
それまで冷ややかだった鳴海の表情に、わずかに赤みが差した。
羞恥ではなく、怒りのためだ。
「そうしなければ、患者は死んでいた」
激情を秘めた眼差しで、鳴海は桐生を見据えた。
「では、他にどうしろと?
スタッフが少ない時間帯に、多数の救急患者。
よりにもよってICUが手薄で、コールで飛んできたのは二年目のレジデント。
彼と一緒に、患者が心停止するまでうろたえているのが正解だったとでも?」
鳴海の怒りの矛先は、目の前の桐生ではなく、病院のシステムエラーだ。
わかっていても、ほぼ初対面の年下にむき出しの感情をぶつけられ、桐生は戸惑った。
この国が許可しようがしまいが、鳴海の性根はまぎれもなく医師だ。
「しかしなぜ、あんな明朝にICUへ?」
桐生の問いかけに、鳴海は気まずそうな表情を浮かべた。
打って変わって小さな声で、「Coffee……」と呟く。
「コーヒー?」
「毎朝、五時にはラボに出ているんです」
「ずいぶんと早いんだな。外科医並みだ」
「僕はフロリダに遊びに来ているわけじゃない。
五時から八時までは個人の研究。その後はチームの研究に入っています。
あの日に限って、研究棟の自販機が壊れていたんです。もう一つのコーヒーメーカーは修理中。
眠気覚ましのカフェインを探しているうちに……」
「病棟まで?」
鳴海は頷いた。
「まるで蜂の巣を突いたような騒ぎだった。
そうこうしているうちに、レジデントの呼び声が聞こえて、ベッドは血の海。
――こんな目に遭うなら、行かなきゃよかった」
付け加えた呟きは本音だろう。
おそらくは一瞬の判断だったはずだ。
病棟の様子で、オンコールが間に合わないかもしれないという不安と、ICUでの開胸。
すぐにその場を離れたのは、逃げかもしれないし、後悔からかもしれない。
だがもし自分ならば、はたして同じ判断ができたかどうか。
見かけからは想像もつかない鳴海の胆力に、桐生は内心感嘆した。
「リョウ、話はよくわかった。
だが、私には君の責任を肩代わりすることはできない。
私はその頃、別のレジデントと移植用心臓を運んでいた。記録を調べればすぐにわかるはずだ」
顔を曇らせる鳴海の肩を、桐生は優しく叩いた。
「しかし、君の行為が患者の生命を重んじてだということは、誰の目にも明らかだ。
何が起こっても、それは変わらない。サザンクロスには優秀な弁護士もいる。
君の心配は杞憂だろう」
それでも不安げな表情の鳴海に、桐生は重ねて訊ねた。
「――それとも、君は自分の判断に自信が無いのか?」
一瞬の躊躇ののち、鳴海の目が、再び勝気に桐生を見据えた。
「いいえ――。
いいえ、ドクター。あれが私にできる最善でした。
少なくとも私はそう考えています」
「よく言った。
私もそう信じるよ、リョウ。
閉胸は私が行ったが、見た限りでは君の処置は完璧だった。
まるでブラックジャックかと思ったほどだ」
外科医に向けた最大級の賛辞を、鳴海は心外と言った顔で受け止めた。
「無謀だったのは認めます。
ですが、博打呼ばわりされる筋合いはありません」
「手塚治虫を知らないのか?」
「テヅカ? 日本のドクター?」
正解ではないが、あながち間違いでもないので、桐生は解説を放棄した。
「――渡米前に、同じ手術の経験が?」
「一度だけ」
「それは、幸運だったね」
「見たことが、あります」
鳴海の頼みを断ったことに、桐生は改めて安堵した。
経験が無いのも道理。聞けば鳴海は日本での研修期間を終えてすぐに、独力でアメリカに渡ったのだ。
三十にも届かないその若さに、桐生は自分の研修医時代を無意識に重ねた。
「なぜサザンクロスに?」
「近くに姉が住んでいるんです。
それを基準に留学先をマッチングしたところ、こちらの病院が候補に挙がりました。
ですので、循環器を研究対象にしたのはたまたまですね」
「君のお姉さんか。きっときれいな人だろうね」
間接的な賛美を受け、鳴海は初めて微笑んだ。
口に出してしまったのは、煙草の代理に立てられたアルコールのせいもあるだろう。
桐生は世辞を言うたちではない。
なので、続いて滑り出てしまった言葉も、心からの言葉だった。
「それにしても、君を研究者にしておくのはもったいない。
君ほど優秀で熱心なら、外科を目指してもいいんじゃないか?
サザンクロスにはいい指導医もいる。今からでも決して遅くない選択だ」
その言葉に、鳴海の表情は見る見る冷ややかなものへ換わって行った。
浮かんでいた微笑がシニカルに歪む。桐生の発言が終わる前に、鳴海は鼻で笑った。
「なるほど――、外科医はどこでも一緒だな。
ご自分が一番偉いと思っていらっしゃる」
「そうは言ってないが、誰もが優秀な外科医になれるとは限らない」
「まるで自分たち外科が、選びぬかれたエリートのような言い草ですね。
優秀な研究者だって、誰もがなれるとは限りませんよ」
「私はただ、君が持つ素質の話をしただけなんだが」
「お気遣い痛み入ります。
ですが私は、目の前の一人より、十年先、百年先の一万人を救いたい」
「目の前の患者一人助けられなくて、何のための医学だと?」
臨床と研究とが医学の進歩に隔てられた時から、何万回と繰り返されてきた論争を、二人はバーのカウンターで律儀になぞった。
無論桐生は、鳴海が日本での外科研修の際に、教授と激しく口論したことなど知らない。
医局の面々の前で反論された外科教授に、インターンごとき青二才が、大学にいられなくしてやると怒鳴られたことも、
これ幸いと日本に見切りをつけた鳴海が、今この地に立っていることなど、この時の桐生が知る由も無かった。