桐生は相手のIDカードを取り上げ、ひっくり返した。

 
『Ryo Narumi』

 とっさのことで、どちらが姓なのか一瞬混乱する。



「離せよ!」



 その間に、ナルミという名の医師が手を振り払う。

 桐生は軽く手を挙げ敵意が無いことを示し、身を離した。



 ナルミは屈んで散らばった論文を拾い始める。






「4510号室の患者の外科処置は、君が?」






 ナルミは一瞬手を止めたが、何事も無かったように作業を続けた。






「何の話かわかりません」

「ごまかさないでくれ。ICUにいた、BiVADの患者だ。関係無いなら、逃げるはずがないだろう」

「あなたが追いかけるからでしょう。

 いきなり見知らぬ男に恫喝されて、逃げないほうがおかしい。

 いい加減にしないと、診断書を取って暴行で訴えますよ」



 そう言って、握られた手をひらひらと振った。

 よほど強く掴んでしまったのか、握られた痕がくっきりと手首についている。



「関係ない患者の病室を、覗きこむはずがない」



 桐生がきっぱりと言うと、ナルミの顔が一瞬曇った。



「外科医なら誰でも、自分が施術した患者が気になるはず。

 君が様子を伺っていたのは、術後の容態を気にしたからだ」



 黙りこむ青年に、桐生は自分の推理の正しさを確信した。



「どうして胸を張って名乗らないんだ。

 あの患者を救ったのは自分だと、名乗ればいいじゃないか」

「俺は外科医じゃない!」



 怒鳴ったナルミは、腕時計を見てため息をついた。



「説明したいのは山々ですが、時間が無いんです。ラボに戻らないと」

「逃げる気なのか?」

「IDまで覗かれて、逃げるも何も無いでしょう。ドクター――」

「桐生だ」

「ドクター桐生、シフトが開けるのは何時ですか?」






 夜、勤務後に内密の話がしたいという男に、桐生は近くのバーを指定した。

 ナルミは始め躊躇っていたが、ややして首を縦に振り、慌しく論文を引っつかんだまま階段を上って行った。



















 ホテル宿泊客向けのそのバーは、病院の他のスタッフが訪れる機会が少なく、

 桐生は一人で飲みたいときに利用していた。

 アメリカンスタイルの飲み屋は賑やかすぎて、仕事帰りの疲れた身では悪酔いしてしまうのだ。



 日本人の姿がいないことを確認して、勤務明けの桐生はカウンターに座った。

 少し考えてスコッチを注文する。酔わない程度に舐めつつ、煙草に火を点した。



 話しかけてきた女性客に人を待っているとだけ告げ、一体誰を待っているのか、桐生はじきに不安になってくる。

 何本か吸殻が積み上げられ、灰皿が新しいものに代った頃、桐生の背後で空気が揺れた。






「信じられない」






 振り返ると、驚愕しきった黒い瞳が、桐生を見下ろしていた。

 滲む嫌悪を隠そうともしない。



「信じられない。悪い冗談みたいだ。

 外科医が煙草を吸ってる」



 桐生はむっとした顔で紙巻をついばみ、静かに煙を吐き出した。



「何事にも例外はある」



 そして、火を点けたばかりの煙草を、取り替えたばかりの灰皿で揉み消す。

 彼が観光客向けのバーを選ぶ理由の一つは、こういった人間が比較的少ないからだ。



「毒を好んで摂取する医者が、一体どんな顔で患者に断煙指導を?」

「健康的に生きることだけが人生じゃないだろう」

「今の言葉は聞かなかったことにしてさしあげましょう。少なくとも医師が吐いていいセリフじゃない」



 久々に聞いた日本語は、ニコチンの毒より辛辣だった。

 消した火と一緒に、目的を見失いかける。

 残る煙にわざとらしく口元を押さえ、それでも待ち人は横に座った。






「なぜ、わざわざ酒場を?

 病院内でもよかったのですが。日本語がわかる人間も他にいないでしょうに」



 桐生は少し考えて、答えた。



「少し話をしたくてね。君のことが知りたかった。



 君は――何者だ?」



 鳴海は軽く首をかしげ、バーテンダーに向けて視線を投げた。



『ジンジャーエールを』

「飲まないのか?」

「車なので」



 そして、改めて桐生に顔を向ける。 






「リョウ・ナルミ。研究留学生です。

 今は心筋細胞移植についての基礎研究チームに加わっています」






 桐生は相手の顔をまじまじと見つめ、それからその手先に視線を移した。

 芸術家を連想させる、細くて長い指。



「桐生恭一、心臓外科レジデントだ。――漢字は?」

「鳴門海峡と、さんずいに、みやこ」



 字面を思い浮かべた桐生の口から、素朴な疑問がこぼれ出た。



「芸名?」

「あなたに言われたくない」



 鳴海は憮然として、置かれた炭酸水に口をつけた。






 桐生の失言も悪気からではなく、その名が鳴海の姿に似て端正だったからだ。

 階段で捕まえた時はそれどころではなかったが、キャンドルに照らされた顔は、

 同性の桐生でも目を細めるほど美しかった。



 整いすぎて逆に、どこか冷淡な印象を覚える。

 それと、特徴のある声。



 まだ学生でも通りそうな瑞々しさに加え、細い四肢と整った相貌。

 身の上を知らなければ、白衣を脱いだ鳴海を、同じ医師とは到底思えなかっただろう。



「リョウ――か。いい名だ。

 私のことも恭一と呼んでくれ」



 差し出された右手を鼻白んで眺め、握り返しもせずに鳴海は切り出した。



「ドクター桐生、早速ですが本題に。



 ――くだんの患者は、噂通りあなたが開胸処置したことにしていただけないでしょうか」