インターンを解放した後も、桐生の違和感は晴れなかった。
『口止めされていたんです。処置を引き受ける代わりに、
《自分が開胸したことは決して口外するな》と――』
『医師の名前は?』
『わかりません。名乗らなかったんです。白衣を着ていたので、どこかのスタッフなのは確かです。
IDカードは下げていたのかもしれませんが、確認するほどの余裕が無く……』
だからどうか、ハラキリだけは許してください。と、インターンはうなだれた。
ミスター・ニンジャの名は、インターンの間にまで轟いていたらしい。道理で口が軽かったわけだ。
ミヒャエル教授にも相談してはみたが、
『ヘリに乗ったまま別室でオペか。キョウイチはずいぶん器用なことをするね』
いつものしかめ面で、冗談とも真面目ともつかない言葉を返されただけだった。
――ひょっとしたら、本当に自分のドッペルゲンガーか何かが、こっそりメスを取ったのでは?
そんなオカルトじみた考えが脳裏を過ぎるほど、不可解な出来事だった。
幸いなことに、止血処置を受けた患者の経過は良好で、あくる日には一般病室へ移った。
しばらくは再開胸手術をせずに済むだろう。
処置は的確なのだから、どこの医師か名乗ればいいだけの話だ。
桐生にその功をなすりつけ、インターンに口止めする意味がわからない。
桐生がまず思い浮かべたのは、日本の医師なら知らぬ者が無い、伝説の天才外科医の名だ。
医師免許を持たぬモグリの外科医が、膨大な報酬と引き換えに、神がかった執刀で命を救う。
外科を志す者なら、一度はその手技をひっそりと夢見て、早い段階で現実を思い知る。
やはり、あれは漫画の中での話なのだと。
ふらりと現れ、命を救い、名前も告げずに立ち去った医師。
――まるで、ブラックジャックのようだ。
くだんの患者自身は元々の受け持ちではなかったが、アテンディングに頼みこんで担当に加わった。
桐生は手術の合間に病室に足を運ぶように心がけた。
知らない間に急変でも起こされたら、責任の所在がどこに行くかわからない。
結局その生真面目さが、彼を真相に導くことになった。
午後の病棟はいつも賑やかだ。
医師やコ・メディカルスタッフ、患者とその家族や、弁護士までが慌しく行き交う廊下。
回診を急ぐ桐生は、あからさまに不審な人物に目を留めた。
例の患者の病室前を、何度も往復している一人の医師がいた。
医師、と判断したのは、病院支給の白衣を着ていたからだ。
不審な白い影が、ドアの窓から病室を覗きこもうとしているのを見咎め、桐生は声をかけた。
『君、そこで何をしている』
途端に白衣の背が、びくりと強張った。
そして、そのまま振り返らずに、脱兎のごとく廊下を走り出した。
『おい、待て。
待つんだ!』
通路の人の群れを、器用にすり抜けながら、不審者は逃げた。
後を追う桐生の必死さに、人々が驚きの目を投げかける。
人ごみでの追走劇に、長身の桐生は分が悪かった。
見る間に小さくなる背中は、通路の角を曲がると影も形も消え失せていた。
目の前に伸びるは研究棟へと続く渡り廊下。左手には非常階段。
階段を駆け下りる微かな足音に、桐生は迷わず階段を下りる。
下を見ればやはり黒髪の頭頂が消えさる瞬間だった。
「Halt!」
無人の非常階段を駆け下りながら、桐生が怒鳴りつける。
とたんに影ががくりと消えた。
怒号のエコーに、乾いた紙の音が被さる。
追いついた桐生が見たものは、踊り場一面に撒き散らされた書類と、それを慌てて拾い集めている男の姿だった。
――似ても似つかないじゃないか。
いくら日本人の見分けがつかない欧米人でも、目の前の男と桐生の区別くらいはつくだろう。
桐生の前では華奢にすら見える細身の男が、怯えた顔を上げた。
桐生はその腕を掴み、体を壁に押しつける。
「君が、ブラックジャックか?」
「痛っ!」
男が悲鳴を上げた。
次の瞬間、二人は驚いて顔を見合わせ、相手をまじまじと見つめながら、
全く同じ言葉を同時に口にしていた。
「………日本人?」
桐生はもちろん、その後幾度となく想像を重ねた。
鳴海と出逢わなかった人生。
おそらく実直に道を歩み、そこそこの心臓外科医になったであろう自分。
優秀な研究者の名を、論文で覚えることはあったかもしれない。
海外の学会ですれ違うこともあったかもしれない。
けれど、二人は出逢ってしまった。
それは楽園にも似た、母国から遠く離れた異国の南で。