狐につままれたというのは、こういうことを言うのだろう。
患者は五十七歳男性、補助人工心臓(BIVAD)からの出血。
それ自体はよくあることだ。
不可解なのは、なぜか桐生がSICUで開胸処置を行ったと、その場にいた皆が口をそろえたことだ。
しかし桐生自身は、移植コーディネイターの連絡を受け、レジデントを率いてアトランタから戻ってきたばかり。
予定ではそのまま、移植手術に入るはずだった。
自分の亡霊が、知らない間に胸を切り開いたとでもいうのだろうか。
おのれの存在が根幹から揺らぐような居心地の悪さを覚えながらも、桐生はその場で止血箇所をチェックした。
虚血状態が長引いたせいか心臓は弱っていたが、出血は止まっている。止血箇所にも問題は見当たらない。
何かあれば再開胸することにして、手術室が開いたわずかな時間を塗って胸を閉じた。
詳細を確かめたかったが、そうしている間にも救急の患者が運ばれてくる。
手術室に向かい、移植担当のアテンディングにどやされた後は、桐生はそのまま処置室に向かった。
事故外傷の外科処置では、日本での経験が充分に役立った。
溢れ変える患者の群れにやっと息をついた頃には既に夕刻。
窓の外ではフロリダの太陽が、一日の仕事を見事な日没で締めくくっていた。
食堂で遅すぎる昼食を摂っていると、やはり同じようにくたびれたレジデントが、汚れた白衣のまま桐生の横に座った。
一緒に心臓を運んだ彼は、移植手術の執刀を回してくれたことに対して礼を言う。
疲れきった二人の医師の間に、どこか戦友めいた空気が流れる。
『どうも知らない間に、知らない患者の手術をしていたらしい』
『どういうことだい?』
『私にも全くわからない。知らない間に細胞が二人に分裂した気分だよ』
淀んだ目でぼやくと、若いレジデントは、なぜかキラキラと目だけを輝かせた。
『ああ、知ってるとも! ニンジャはそういうマジックが使えるんだ!
キョウイチがニンジャだったなんて、なんてクールなんだ!
なんてこったい、最高の気分だよ!』
院内での桐生のニックネームは、次の日から『ミスター・ニンジャ』になった。
訂正するのは三人目で諦め、代わりに桐生は、あの時SICUにいたスタッフを探し、何があったのかを訊ねて回った。
サザンクロス病院でも、まれに見る修羅場の最中だった。
皆、自分の持ち場だけで精一杯で、他のベッドのことまで覚えていないと繰り返す。
だが、しつこく聞きまわるうちに、おぼろげながら共通する部分が見えてきた。
SICUにいたスタッフの話を、時間軸に沿って繋げると、次の通りになった。
大事故の患者が次々と運ばれてくる中、手術後の患者が出血を起こした。
ファーストコールを受けたインターンが、大した出血ではないと考え、救急患者を優先させた。
看護師が気がついたときにはすでに、床まで血の海になっていたそうだ。
コールをかけても、普段ならばすぐに集まってくる外科医が、救急に手を取られやってこない。担当医は捕まらない。
PAとインターンが手をこまねいているところに現れたのが、
『……東洋人のドクターでした』
結局、最後にたどり着いたのは、あの場にいたインターンだった。
最初はとぼけていたが、理詰めで問い詰めるとすぐボロを出し、少しずつ真実を語り出した。
『東洋人?』
『ええ。 東洋人の先生が、その場で胸を開き、止血処置を行いました。
《あとは担当医師の指示を仰いで》とだけ告げ、どこかへ言ってしまいました。
他の医師らが駆けつけたのはそのすぐ後です』
『それで、どこから私の名が?』
『…………見事な手腕だったので、あれは誰かとSICUの看護師に尋ねたところ、
おそらく日本から来たドクターキリュウではないかと……』
桐生は首をひねった。
サザンクロス病院の外科研修プログラムは、様々な国籍の医師らを受け入れているが、
少なくとも今現在、アジア系の在籍医師は自分一人だ。
昨年七月までは韓国人医師がチーフレジデントのポジションにいたが、ワシントンの病院でのポストが決まり、
すでにここを去って久しい。
黙りこむ桐生に、インターンは躊躇いがちに口を開いた。
『……ドクターキリュウ、実は――』