嘘かもしれないし、それは本当のことかもしれない。
正直なとこ、オレはどちらでもよかった。
でも――あの時、
こいつと一緒ならもう一度朽ちてもいいと願った気持ちは真実だと思う。
来ないかとも思ったけれど、ヒジリさんは時間通りに現れた。
渋谷のカフェの入り口に立ついつものジャケット。
あのパッチワークもずいぶん久々に見た気がする。
もう長袖の季節だ。
「こっちこっち」
窓際の席で手を振ると、こちらに気づいて帽子を下げた。
「よう勇。久しぶりだな」
「相変わらずしけた顔してんな。元気?」
「ぼちぼちってとこだな」
コーヒーを、と頼むヒジリさんは以前と変わらず少し疲れているようだ。
氷の解けたアイスティーをかき回して、オレはどう切り出したものか躊躇う。
「二ヶ月ぶりだっけ?」
「ああ……それくらいだな。もう」
「あの時は――悪かったね。ロクに挨拶もできなかったな。
ちょっとバタバタしてたもんだから」
「あの時?」
「最後に会った病院」
あのバカが新宿衛生病院に担ぎ込まれ、うろたえて公衆電話を探していたオレは、
見舞い帰りというヒジリさんに偶然出くわした。
キレイに、とは言えない別れの後だ。
普通だったらシカトか蹴りか、動揺の一つもするだろうけど、
その時のオレはさすがにそれどころじゃなかった。
大したことは話さず、妖ロゴ入りのテレホンカードを借りてそれっきり。
イヌノの寝顔をちらと見て、ヒジリさんはいなくなっていた。
「あの小僧は元気か」
「うん。あんたよりかは健康じゃない?
なんかバイトばっかしてる」
「そりゃ何より」
「ちゃんと寝てるの?メシ食ってる?」
「どっこい、ちと忙しくてな」
「大概にしないと体壊すぜ?
もう若くないんだからさぁ」
「お前に比べりゃ大概は年寄りだろう」
「……ま、オレがあんたの心配するのもヘンな話かね」
二人で笑い、少し黙る。
間を持たせるためのコーヒーが、ヒジリさんの前に置かれる。
「……で、用事ってなんだ?」
「あ――うん。……実はさ、ずっと黙ってたんだけど」
と、まるで見計らったようにメル着音が鳴った。
「ん?鳴ってるの、おまえのじゃないか?」
ジーンズのポケットから携帯を一応取り出し、差出人だけ確認してテーブルに置く。
内容は読まなくてもわかる。
「いいのか?」
「あ、いーのいーの。
ヒジリさんに渡すのはこっち」
反対側のポケットを探り、手探りでそれを取り出す。
二ヶ月ぶりに電話を掛けるのには少し勇気が要った。
無視することもなくヒジリさんは電話に出る。
よう勇、久しぶりだな。
別れも死も、全てが無かったかのように振舞える男がまだ少し怖い。
「ハイこれ」
「なんだ?」
「ずっと借りパクしてた。返すわ」
失くさないようにつけていたチェーンホルダーの金具を外して、
男の部屋の鍵をテーブルに置いた。
いつかの朝、走り去った人が置いていった合鍵だ。
返すつもりで預かってそれきりで、
受け取る家主と一度だけ指が触れる。
「……やっぱりお前か、勇」
「あ。やっぱ気づいてたんだ?
別にパクるつもりなかったんだけどさ、なんかタイミング悪くてね。
こればっかは捨てるワケにもいかねぇし」
鍵をテーブルに置いたまま、ヒジリさんは煙草を咥えた。
甘く重い煙を吐きながら何やら考え込んでいる。
「……なぜ持ってるのに使わなかった?」
「だって、オレのじゃないし」
「――そうだな、お前はそういう奴だ」
鍵をもう一度オレのほうに押し返し、
「持っていてくれて俺は構わんぜ。
またいつでも来いよ、勇」
「……あんたはそう言うと思ったぜ。
だから、返すわ」
オレは頭を振った。
「―-そうか。
てっきりまたあの小僧と何か揉めたのかとも思ったがな。
アテが外れたか」
「うん。わりとラブラブ」
「どうだった?筆下ろしは」
相変わらず、こういうとこはオヤジなんだよなぁ。
「いや、それがさぁ。
『体目当てじゃないとこ見せっから!』
とかめんどくせえこと言い出して、まだなんにも。
こっちは股開いて待ってるっつーのに、何やってんだか」
返事が無い。
ヒジリさんは顔を押さえて笑っている。
「なんかね、クリスマスに夜景の見えるホテルでキメたいんだって。
それでバイト」
「あの小僧らしいというか……なんというか」
「まぁ可愛いよな。バカだけど」
また携帯が鳴った。
今度はメールじゃない。
オレはイラついて「後で電話すっからおとなしく待ってろ!」とだけ怒鳴って叩き切った。
「イヌノか」
「悪いね。今日ヒジリさんと会うこと言ってあるんだ。
なるだけ隠し事はしないって約束でさ」
「ずいぶんとガキ臭いつきあいしてるもんだ」
「羨ましい?」
意地悪く訊くとヒジリさんは間を置き、
「ああ」
素直に頷いていた。
「他人といるのがずっと怖くて。でも一人は淋しくて。
――みんなそうなんだよな」
「頑張れそうか」
「わからない。でもやってみる」
「無理はしなくていい」
「覚えてるか?」
「ああ、覚えてるぜ」
「復讐?」
「違う、責任だ。でも俺には無理だったな」
「無責任なくせに」
「まぁそうだ」
「――あの世界で何があったか、黙ってるのが一番いいと思ってた。
オレにもイヌノにも、ヒジリさんにも」
「………」
「でもそうじゃなかった」
「……ずいぶんとカマ掛けてきたな」
「あんたは今の今までしらばっくれてたね」
「お前は忘れているんだと思ったぜ」
「たぶん――口に出さないだけでみんな覚えているよ。
あいつもあいつもあいつもあいつも」
オレはガラス張りの壁の向こう、道行く人々を一人一人指した。
「夢だとは思っているかもしれないけど」
それでいいと思う。
でも忘れてはいけない。
誰かが世界を拒んだことも、別の誰かがまたこの世界を求めたことも。
少なくともオレは忘れないだろう。
口に出すことができなくても、ずっと憶えているだろう。
「次の記事はそれで行くか。『脈打つ集合的無意識。東京は既に死んだ』
うん、なかなかいい」
「そうだ、あとテレカも返す。
忘れるとこだった」
「……それこそお前にやるよ」
「いらない。今時テレカなんて使わねぇし」
「いいデザインなんだがなぁ」
一つだけ穴の開いたアヤカシ読者プレゼント用テレカを、
ヒジリさんは少し淋しそうにポケットにしまった。
「そろそろ行こっか?」
「……そうだな」
話したいことはたくさんあるけれど、用件は終わり。
このまま長い時間を過ごせば、それだけ、別れに感情の影が増す。
先に席を立つのはオレの役目だろう。
11月の渋谷は、気が早すぎるクリスマスのイルミネーションで飾り始めている。
ちぐはぐなディスプレイを見上げることもなく、たくさんの人々がそれぞれの行き先へと
足を急がせる。
公園通りの坂を並んで歩きながら、黙っているのもヘンかとオレたちは言葉を探した。
「あのさぁ」
「なんだ?」
「オレ、別れた相手とちゃんと会うのって初めてなんだぜ。
ずーっとフェイドアウトで逃げてばっかだったから」
「そういうのをな、繰り返して繰り返して――」
「繰り返して?」
「だんだん歳取っていくんだ。気がついた時にゃ大人って奴になっている」
「ふーん。めんどくせえのな」
「ああ、全くだ」
「あとさぁ」
「なんだ?」
「殺してごめんな?」
「……まぁ、ありゃお互い様だ」
「じゃあそのジャケットくれよ」
「やらん」
奇妙な気分だった。
ほんの二ヶ月前までは会うたびに触れ合って、貪りあっていた相手と、
もう二度と会わないかもしれないというのは奇妙な気分だった。
ほんの数歩前を行くジャケットの裾を握れば、そのままあの部屋に帰りそうな気がする。
けれどもそうできないことを互いに知っている。
「じゃあ、オレJRだから」
「ああ」
ハチ公の壁の前で、今度こそお別れだ。
なのにヒジリさんは黙って突っ立ってオレを見ている。
ふと、その右手が上がる。
オレの頬に触れようとして掠らず、そのまま帽子の上から頭をポンポンと叩かれた。
「元気でな」
「うん。――ヒジリさんも」
「勇」
「なに?」
ヒジリさんはオレの頭を押さえつけ、
「ホテルでも行くか」
うら淋しい冗談に二人で笑う。
最後まで気を遣うこの人が哀れだ。
オレも哀れだ。
でも惨めじゃない。
この人はオレのことがとても好きだったんだなぁと、
ここに来てようやく、そんなことを思い知る。
オレは笑ってその手を逃れ、親指を下に向けた。
軽口で返してやりたかったけれど、言葉が何も出てこない。
せめて、笑顔だけは崩さず、
「さよなら」
それしか言えなかった。
人ごみに埋もれ、初めての男の背中を見送った。
初めてオレが殺した背中だ。
二度と見ないかもしれない後ろ姿。
オレは憶えているだろう。
きっと忘れないだろう。
紫の帽子は、雑踏に紛れすぐに見えなくなり、
オレも次の待ち合わせに向かって歩き出した。
と、携帯が震える。
懲りずに掛けてくるその根性に苦笑して、オレは電話に出た。
「よぉ、今どこ?
……なんで半泣きなんだよ。いや、泣いてんだろその声は。
これからそっち行くからちょっと待ってろ。
そ。
今、