とりあえず俺は待った。

 何せ気が長いことには定評がある。



 だが相手はのらりくらりと会話をかわすだけで、このままではいつまで経ってもラチが明かない。

 鳴海の真意を測りかね、とうとう俺はこちらから切り出してみることにする。



「私を訪ねたということは、何かおっしゃりたいことがあるのではないですか。

 何か言ってくださらないと、私には何もできませんよ」



 俺の言葉に、目の前の男はわずかに躊躇い視線を落とした。



「わざわざ田口先生にお話するほどのことかはわかりませんが……」



「言ってみてください。

 話して治る年寄りの神経症だってありますよ」



 覚えているのかいないのか、俺の嫌味を軽くすり抜け、鳴海は見事なアッパーカットを放ってみせた。



「私のセクシャルオリエンテーションは男性なんです」



 セクシャルオリエンテーション、つまりは性指向のことだ。


 俺は虚を衝かれた。


 けれどもその瞬間、諸々のことがぴたりと納得できた気がした。



「原因はわかっています。

 公私のパートナーを失ったことによるダメージが思いのほか深くて」

「……ちょっと待ってください」



 鳴海の話を遮り、俺はもう一度確認してみる。



「なんでしょうか」

「その話、本当に本当ですか?

 つまり、鳴海先生は本当に本物の同性愛者なんですか?

 あの、私を陥れようとしているわけではなくて」




















リバーサイドの憂鬱
1章 雨に捨て猫

6月28日 金曜日 午後5時30分
1F 不定愁訴外来














「その後のご様子はいかがですか?」



 曇りガラスの向こうでは、梅雨の長雨が降り続いていた。

 鬱陶しい雨の午後、こんな日に病院に長居したいと思うヤツはそういないだろう。

 俺のように、飲みに行く習慣も無い者ならなおさらだ。



「なるほど。

 そうしていると田口先生も立派な臨床医に見えますね。

 他科の先生や、患者からの信頼が篤いのも頷けます」



 そんな日に限って、厄介事は転がりこんでくる。

 俺はイレギュラーな自称『患者』を、どう扱っていいものか内心では手をこまねいていた。



「……お元気そうで何よりです。

 わざわざご足労いただいて恐縮ですが、鳴海先生は患者には見えませんね。

 私の『診療』など、先生には必要ないでしょう」

「そう見えますか?

 ちゃんと保険証も持ってきたのに、田口先生に見捨てられては私は行き場所がありません」



 そう言って軽く肩をすくめる。

 半年近く前の聞き取り調査と変わらない、挑発的な鳴海の口調。一見、高級猫のような印象も相変わらずだ。


 もっとも、その陰に隠れている鳴海の激しい一面も、俺は既に知っているわけだが。











 勤務中の俺に、鳴海から連絡が来たのは先週のことだった。


 『不定愁訴外来を受診したい』


 という唐突な申し出に、俺は二重の意味で面食らった。


 元・本学助教授である鳴海が、不定愁訴外来の位置づけを知らぬはずはないし、

 そもそも不定愁訴外来は基本的に紹介制だ。

 一回の診察時間が長いので、上限5人と決まっているローテーションに、新規患者を組み込むのは意外と難しい。

 鳴海もその辺りの事情は踏まえていたようで、一般外来後の午後に、時間を作ってもらえないかと控えめに打診してきた。



 引き受けたのは、遠方の元・職場を訪れてまで、鳴海が何を伝えたいのか知りたかったのと、

 鳴海のその後が気がかりだったからだ。



 心臓外科医としてのキャリアに終止符を打った後も、桐生はどこか吹っ切れた様子でアメリカへ帰って行った。



 しかし、鳴海はどうだろう。

 行き掛かり上仕方なかったこととはいえ、桐生と引き離されるきっかけを作ったことを、未だ恨んでいるのではないか。





「循環器病センターはいかがですか?」

「今のところ問題はありません。サザンクロスほどではないですが症例は豊富ですし、研究にはいい環境と言えるでしょう。

 ――もっとも、ICUのほうでは立て続けに外科医が辞めてしまい、頭を抱えているようですが。

 どこの病院にも問題はつきものです。


 ……センターが本当に欲しかったのは、病理医ではなく、優秀な外科医だったのかもしれませんね。

 私のようなものにも、身の置き場所を作ってもらえたことには感謝しています」



 組んだ膝の上で指を交差させ、鳴海は皮肉っぽく唇の端を上げた。



「鳴海先生のキャリアなら申し分無いと思いますが」

「スタッフ内の殺人をみすみす見逃した病理医、の経歴がですか?」



 白々しく驚いてみせる鳴海に、俺は自分の失言に気づいた。

 バチスタ・スキャンダルが落とした影は、一般患者、病院関係者を問わず未だ大きい。


 解剖に踏み切ることができれば、その鋭い眼差しは狂った術死の原因を見逃しはしなかっただろう。

 現に鳴海はそれを望んでいたのだ。

 あの時、解剖ができなかったのは鳴海のせいではない。

 だが、周囲がそう見るかどうかは別の問題だ。 



「幸か不幸か、病理医はどこでも不足していますからね。

 義兄がフロリダに帰ったのは正解でしょう。日本に残る限り、どこにいたって針の筵に違いありませんから」



 鳴海の環境がどうしたものか、その澄ました表情からはうかがい知ることができなかった。

 俺は話を変えることにした。



「桐生先生はお元気ですか?」



 ところが、桐生の名が出た途端に、鳴海の表情は陰りを帯びた。

 膝に視線を落としたままそっけなく答える。



「さぁ? どうでしょうか。

 連絡が無いものですから」



 こちらの話題もヤブ蛇だった。桐生の決意は固いようだ。

 鳴海がそれを淋しく感じるのも、致し方ないことかもしれない。



 黙りこんだ鳴海を前に、どうしたものかと内心手をこまねく。

 そもそも、コイツは一体何をしに来たのだろう。



「そうですか。 それはお淋しいでしょうねえ」



 戸惑った末に、万年講師と元・助教授という身分の壁をとりあえずは取っ払い、

 俺は徹底した外来モードで通すことにした。

 患者だと思えば、長い沈黙も何も気にならないはずだ。



「でも、お一人で本当によく頑張りましたね。

 馴れない環境で大変だったでしょう」



 わざとらしいまでの扱いに、舌鋒鋭い反撃でも来るかと思えば、

 鳴海は頬杖をついたまま押し黙っていた。

 藤原さんがタイミングよくお茶を出してくれることを願ってみたが、あの人はとっくに帰った後だ。



「体調などはいかがですか?」



 俺の問いかけに、ああ、という顔をして、鳴海は顎先に当てていた指を放した。


「いささか不眠気味のようです。

 食欲も落ちて、慢性的な疲労感が抜けません」



 とってつけたような症状を、鳴海は他人事のように語った。

 詐病にも思えたが、確かに最後に会った時より痩せたようにも見える。

 どのみち、それこそ心療内科の領域だろう。本来なら俺の出る幕ではない。



「それはお辛いでしょう。

 環境が変わったのも原因の一つかもしれませんね。

 何せ、色んなことがありましたからねえ。

 本来なら、ゆっくり休暇でも取られるのが一番いいんでしょうが」

「私もそう思いますが、なかなかそういうわけにもいかないでしょうね」

「お互い、組織人の辛いところですね」



 鳴海はにっこりと笑った。



「田口先生って、人当たりは柔らかいのですが、

 つくづく腹の底では何を考えていらっしゃるのかわからないタイプですよね」



 コイツだけには言われたくないセリフだ。



「それは買い被りですよ。

 考えていることはごく単純なんですがね」



 鳴海の真意を測りかね、とうとう俺はこちらから切り出してみることにする。



「私を訪ねたということは、何かおっしゃりたいことがあるのではないですか。

 何か言ってくださらないと、私には何もできませんよ」





 こうして俺は、鳴海の個人情報を一つ、引き出すことに成功した。






 こんなこと、うっかり聞くんじゃなかった。