もう、答えの出ない口論にも彼は慣れてしまった。

 そしてそれをセックスで打ち切る方法も覚えていた。






 鳴海の寝息を確認して、静かにベッドを出ると、桐生は裸のまま暗いキッチンに向かう。

 カウンターの煙草を手に取り、換気扇を回して紙巻に火を点す。

 煙を三度深く吸い込んでから、携帯電話を手に取った。



「――もしもし?」



 以前よりは他人行儀な挨拶を交わし、通話口のあちらとこちらで黙りこむ。

 フロリダとの時差は十四時間。

 日本は夜中の二時だが、向こうの時刻は明日の昼の十二時。

 電話をかける度に、彼は十四時間分の過去に置いていかれるような気がした。



 伝えるべきことはたくさんあったが、桐生は結局、次の言葉に集約した。



「フロリダに帰ろうと思うんだ。――うん、一人で」



 長い沈黙の後で、いつかの家族が尋ねた。



 目は平気?

 喪った視力は戻らないけど、もうそれは仕方ないからね。そっちは。

 何も。何も変わらないわ。




 許してくれ。



 とは、さすがに言えなかった。

 そこまで図々しくは振舞えないし、過去に切り離されたこの距離で話すことではない。

 夏の国で彼女は再び黙りこみ、また連絡するとだけ伝えて彼は電話を切った。

 二本目の煙草に火を点けてようやく、キッチンの入り口に立つ鳴海が、狭い視野に入ってきた。






「気づいてないとでも思った?」






 交歓の痕もなまなましく、裸にナイトガウンを羽織っただけの姿は幽鬼のような存在感だ。

 彼の姉――別れた妻に連絡を取り続けていたことを、桐生は隠していたつもりだった。

 そのことを責めているのだと理解しても、もう言い訳するべきではないだろう。 



 桐生の横を通り過ぎた鳴海は、冷蔵庫の扉を開け、ミネラルウォーターの瓶をあおった。

 それから深々とため息をつく。



「嫌になるよ。蜜月なんて、本当に短いんだから」



 自嘲気味に吐き捨て、鳴海は俯いた。

 もはや取り繕えないその表情は、歳相応の疲れを滲ませていた。



 老けたな、と桐生は思った。



 今も充分美しいが、桐生は知っているのだ。

 異国の人々が振り返らずにはいられなかった、もっとも美しい花の盛りを。

 狭まる前の桐生の視野に、その姿を焼きつけたことは、鳴海にとって幸福だったのか不幸だったのか。



 十年は長い。かつて桐生を追いつめた美貌は歳月の間にわずかにやつれ、

 男にしては細やかな肌は、重ねた体の下で、しっとりと張りを失っていった。



 しかしそれは自分も同じだ。

 互いの肉体で、彼らは幾度となく重ねた歳月を反芻した。



 煙草の灰が落ちる。

 もう一本紙巻を取り出し、桐生は空になった箱を潰す。

 静かに回る換気扇の音に、押し殺した鳴海の啜り泣きが入り混じる。



 いつもならば煙草を揉み消して、泣き止むまで肩を抱いていた。

 けれど桐生は動けなかった。

 シンクにしがみつき、嗚咽と涙を垂れ流す鳴海に、かける言葉が見つからない。



 冷たくなった指先で、三度煙草に火を点す。

 灰皿は吸殻で埋まっている。



 最後の煙草が灰になるまでの間に、彼は言葉を探さなくてはならない。






 瞼を閉じる。






 夏で埋め尽くされた国。目に痛いほどの青空。









 それは十四時間後の空ではなく、病院の窓から見上げた、十年前の、あの。







ダ   フ   ネ   の   花   冠












Corolla of Daphne