新 宿 ゲ ッ セ マ ネ
世界が終わる二日前の話だ。
恋人はいつものように夜が明ける前に部屋を訪れる。
「悪ぃ、起こしちまったな」と大仰なポーズで肩を竦め軽い抱擁。頬と唇にキス。
海外生活で身についたというストレートな愛情の表しは、
最後まで慣れることはできなかったのだが。
「……珍しいな、起きていたのか」
「………」
その夜はとても眠れなかった。
明かりを落としたリビングで一人、窓の外に眠る世界を眺めながら彼を待っていた。
いつものように抱擁とキス。けれど彼は疲れているようだ。
唯一のインテリアであるマニ車をからからと回し、落ち着かず、
長椅子の脇に腰掛け、私のグラスを嗅いで一口だけ舐めた。
「ちょうどいい。話がある」
「私もだ」
「代々木公園には行くな」
「………その話はもう済んだことだ」
「……見てきたがな、あれはただの市民団体なんかじゃない。
お前も判ってるはずだぜ氷川。
衝突にかこつけて、標的はおそらくお前だろう」
「知っている」
「前にも言ったがな、お前の信じるものにどうこう言うつもりはない。
しかしな、勢力同士の争いに巻き込まれるのはちと馬鹿馬鹿しいぜ」
寝不足のくぼんだ眼の下、聖は私を見ながら髭を撫でていた。
私は答えあぐね肘掛を指で叩く。
「死ぬつもりか、氷川」
「――死ぬのは私ではない」
「……?」
「…………公園には行かねばならん。君の言う通り大規模な抗争になるだろう。
だがそれはブラフだ。真の狙いは別の場所に」
「……」
「………上は君を消すつもりだ」
カードは揃っていた。
あとは巫女というジョーカーを引っくり返せばいい。それですべてが終わる。
世界を死なせる踏ん切りのつかない私の元に届いた命令が、ヒジリ記者を消せというものだった。
私はその時に教団を離れる決心がついたのだ。
形式に堕落した教義になど興味はない。
弥勒の教えはすべて私の内にあった。
預言を成就させるのはガイア教ではない。 この私だ。
「バレたのか?おれたちのことが」
そう言う彼の口調はどこか愉しげですらあった。
「いや……おそらく違う。
アヤカシの次号……書きすぎたようだな」
苛立たしげな私の指が彼の指に塞き止められる。
「取材ご協力感謝するぜ」
「わからんな……命を引き換えにして伝えるほどのことが君にあるのかね」
「おれは知りたいだけなんだよ、世界の理が何で動いているのか」
そういう彼は酷く疲れていた。おそらく私と同じくらいに。
私は彼の頬を撫でた。彼も私の唇を撫でた。
私たちの苦しみはもうすぐ終わる。
「若いな……君は」
「大して変わらんだろうが」
「……君とこうなるべきではなかった」
「愛してるぜ」
「……慎みたまえ」
「初めて会った時のことを覚えているか?」
「君はどう見ても経済誌の記者には見えなかった」
「アヤカシの名を出したらアポが取れんだろ。
疑われて “実は週刊宝石の処女探しで……”
と嘘ついた時のお前の顔、まだ覚えているぜ。
一瞬だけ笑っただろ」
「笑ってなどいない」
聖は私を抱き寄せる。
「笑ったよ、お前は。お前の笑い顔を見たのはあれが」
彼はそこで黙った。
最初で、最後だと、言えない言葉を私も紡ぐまい。
思えば始めから計算ずくの関係だった。
彼は教団の実情を知りたがり、私は情報操作のために記者の力が必要だった。
だから彼の言葉など、一度たりとも信じたことはない。
なのに、
「あの時に惚れたんだよな。――だから覚えてるんだ」
どうして今、これほど胸が痞えるのか。
寝室での彼はいつになく無口だった。
最後に相応しい、静かな交情だった。
世界が死のうとしているのに私はおとなしく男に抱かれ、
世界が死ぬことを知らない男は何を思っていたのか。やがてくる自らの死だろうか。
「……代々木公園には来るのかね」
「ああ。
お前のためじゃなく、ライターとしてな。
俺じゃお前を守れんよ。……死ぬんじゃないぞ」
私が召還者であることを、彼は薄々知っていたのだろうか。
「……これを」
私はベッドから身を起こした。
手首の黒数珠を解き、彼の手首に巻きつける。
「お守りか?」
「気休めにもならん」
「お前の秘蔵の数珠だろ。いいのか」
「かまわん、スペアがある」
「ありがたみがねえなぁ」
「……新宿衛生病院に来たまえ。
間に合えば、の話だが」
「どこだって?」
「一度しか言わん」
「………それが、“真の狙い”か」
「……疲れているのだろう。眠りたまえ」
彼が眠りについたら、小さな夢魔を枕元に置いてゆこう。
少なくとも、今日一日は眠っていてもらわねばならない。
代々木公園での戦いに巻き込むわけにはいかない。
……しかし、私ははたして彼を守ろうとしているのだろうか。
地獄が始まるのだ。
受胎と共に滅した方がきっと楽だろうに。
受胎後の東京で彼が生き残る保障もない。
私の心は世界と共に死ぬのだ。私が助けられるのもここまでなのだ。
彼は私を憎むだろうか。
私は彼を愛していたのだろうか。
彼の背中を眺めながら、粟粒のような感情が私の中で淀みくねった。
その痛みよ、懐かしい煩わしさよ。
こんな猥雑な心ももうすぐ死ぬ。その愚かさを私は忘れまい。
カーテンの向こうで夜が明けていた。
いつもと同じ世界が始まろうとしている。
私の創る世界はきっと君には退屈だろうな。
それでも――どこかで、君と眺めたかったのかもしれない。
ただ流れてゆくだけの新しい世界を。
「おれたち……終わりなのか?」
眠ったかと思った背中がぽつりと言った。
私は最後の優しさでその背を撫でた。
渡した数珠の分だけ手は軽かった。
「いいや」
これから始まるのだよ。
END
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Jackie様にいただいたキリリク、
“聖×氷川、ペアルック”です。リクエストありがとう
ございました!
キリリクにかこつけて趣味丸出しですみません…!
高校生に比べて書きやすいなぁ、アダルト組は……。
みんなもヒジリ×氷川書くといいですよ。