聖なる嘘つき
君の呼吸が寝息になるのを待ち、腕枕からそっと頭を外した。
サイドランプに照らされた君の横顔を飽きるほど眺め、静かにベッドから這い出る。
君は疲れているのだろう。ぐっすりと眠っている。
支度は既に済ませていた。後は始発を待って出るだけだ。
何を書いても嘘になる気がして、遺書めいた手紙しか残せない私をどうか許してほしい。
彼は死ななくてはならない。
君のために、そして私のために。
休暇と言ったのは、あれは嘘だ。
仕事は辞めてきた。限界だったんだ。
今までは多少体調を崩しても、放っておけばそのうち治った。
だから今度も、と思っていたのだが、とうとう取調べ中に声が出なくなった。
「つまり膣内に異物を」
そこまで言って、かつん、と言葉を失った。
一番苦手な業務、レイプ被害者への事情聴取だったせいもあるのだろう。
感情をすべて押し殺し、被害者の女性に冷酷な質問を次々と浴びせるのが私の仕事。
私にできることはなるたけ機械的に検面調書を取り、相手の心理的負担を減らすことだけ。
今まで何度もやってきたことだ。
だがその日に限って言葉に詰まった。
体が硬直し、汗がこめかみを伝うのを感じた。
私は今や知っているのだ。
自分に向けられる欲望の渇きを。
その怖れを。生々しさを。
もちろん私は君に犯されたわけではない。
ただ自分があのような形で欲望の対象になるなど、今までの人生では考えもつかなかいことだった。
必要以上に被害者に同化してしまったようだ。
落ち着け。
落ち着け。
落ち着くんだ。
こんな私はあってはならない。
こんなとき、あの人ならどうする。
あの方なら。
あの方なら。
もっと、きっと。
完璧に。
笑えばいい。唖然とする被害者女性と事務官を部屋に置き去り、私はトイレに駆け込んだ。
吐瀉物に血が混じってた。潰瘍が悪化したのだろう。限界だと思った。
心身の故障は充分な欠格理由だ。
だから様子を見に来た刑事にもそう告げた。
彼はしばらく考えて、
「御剣検事のいいようにするといいッス」
とだけ答えた。
年末の事件を知っている検事正は、比較的穏やかに届出を受け入れてくれた。
ただ、退官ではなく、とりあえず休職扱いで様子を見ようとそれだけを条件に。
私は戻る気など毛頭無かったが、とにかく現場を離れたくて頷いていた。
……安堵したよ。
これでもう、人殺しを尋問しなくても、変死体の解剖にも立ち会わなくて済む。
安堵している自分が情けなくて壁に拳を打ちつけた。
惨めだった。
青二才と舐められないように、がむしゃらに動き続けた日々はなんだったのか。
マスコミに叩かれ、被疑者に罵られ、灰色の被告人を刑務所に送った日々はなんだったのか。
尋ねられる師ももうどこにもいない。
私はからっぽだった。
あの事件で、私は何を得て、何を失ったのか。
もちろん君には感謝している。
とても感謝しているよ、本当だ。
ああ、外はやはり寒そうだ。
手袋を探してワードローブを探ると、右手だけがすぐに見つかった。
物音を立てないように左手を探すと、なぜかリビングのマガジンラックの隙間から出てきた。君の仕業だな。
まったく、犬みたいな男だ。
ラックには手袋の他に、見覚えの無い旅行雑誌が無造作に放り込まれていた。おそらく、君が買ったのだろう。
ところどころページが折られているのは、これは君が行きたかった国なのだろうか。
……長い休暇を君は無邪気に喜んでいたな。
いつの間にか、週末になれば当たり前のように居つくようになった君。
私は最後まで追い出せなかった。
「僕もしばらく事務所休もうかな。せっかく一緒にいられるのなら。
今まで離れていた時間を埋めたいんだ」
新聞広告の渡航券をチェックしていると横から覗き込み
「ああ、海外もいいかもな。
僕は今までそんな余裕は無かったけど、
お前と二人ならどこまでも行ける気がする」
どこへ行きたいかと尋ねる声に空返事しながら、私は君との別れをあの時決めていた。
何度拒絶しても、巧みに私の中に入り込もうとする君。
今やからっぽの私の中に君の全存在は染み透り、私を埋め尽くして目を耳を口を塞ぐ。
君との日々が不幸だったとは思わない。
むしろ私が味わった始めての安らぎの日々。
熱のこもった眼差しやくちづけにもいつしか慣れた。
君の舌が割って入る感触は嫌いじゃなかった。
夜毎口数が減る背中に、ああ、私はこの男と寝ることになるのだなと予感し、その通りになったな。
痛みも快楽も同性の肉体も、君に与えられるものだったからこそ受け入れることができたように思う。
だらしない逝き顔を見られることも、恥ずかしさよりも自分を曝け出せる心地よさがあった。
しかし君を受け入れ、忘我の果てを極めても、すまない。
私はどこか醒めていた。
「愛しているよ」
うわ言のように繰り返し囁かれる言葉に嘘は無いと思う。
けれど、真実ではないことも私にはわかっていた。
君が愛していたのは私ではない。
十五年の間に君が作り上げた私の幻。
君の中にしか存在できない私の影。
君の視線の向こうに私はいつでも彼を見つけ、その度に少しずつ傷ついていった。
思い出に勝てる者などいやしない。
私はついぞ、彼にはなりきれなかった。
君は気づかず、真綿のような優しさで私の首を絞め続けた。
お別れだな、成歩堂。
恩知らずで薄情な私をせいぜい恨め。
恨んで、憎んで、そしてどうか忘れてほしい。
寝顔に囁くと、君は夢でも見ているのか微かに笑顔になった。
その様子に苦笑して、
ああ、私は君が好きだったのだなと改めて気づく。
本当に好きだったんだ。
手袋を嵌め、旅券を持ち、鞄一つで部屋を出る。
私がいなくなった後の処理は、くだんの刑事に任せていた。
家具は全部捨てろと伝えてある。
同じ部屋に戻るつもりはない。
まだ明けきらぬ外は暗く、春遠い寒気が肺に刺さった。
時間潰しに入ったコンビニエンスストアで、新聞と一緒に煙草を買った。
師に咎められてやめたマルボロに一本だけ火を点け、残りは捨ててしまう。
久しぶりの煙に胃は痛んだが、眩暈と毒が脳をクリアにした。
……煙草は吸わないと言ったのも、あれも嘘だ。
隠れてたまに吸っていた。本当にイライラしているときだけ。
一応、君の前では気を使っていたつもりだった。
成歩堂、君の手も眼差しも届かない場所へ私は行こうと思う。
わかっている。これはただの我侭だ。
だが私は今、おそらく生まれて初めて、自分の意思だけで生きようとしている。
胸が苦しいのはたった今生まれたからだな。
肺に残る羊水を煙と共に吐き出してようやく息をつく。
生き直していればいつかまた会えるだろうか。
今度こそ別個の人間として向き合えるだろうか。
君の眼差しは、
私の声は、
今度こそ互いに届くだろうか。
始発も通らぬ踏切の真ん中で立ち止まる。
果ての見えぬ線路が緩やかなカーブを描いてどこかへと続いていた。
東の空の色が紫に和らぎ始めていた。
道を外れて数歩歩く。
足の裏に砂利と鉄。どこまでもゆける気がした。
たった一人で。
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