昨日までは何も無かった窓に、サンタクロースが貼りついていた。



 「やりすぎだ」



 マンションを見上げ、桐生恭一は呆然と呟く。

 自室の窓の内側で、豆電球が交互にまたたき、

 『Merry Christmas』の文字と、光るサンタクロースの像を結んでいる。











Miracle of Sakuramiya











 時刻は11時半を少し回ったところだ。

 忘年会を途中で抜け出し、タクシーで帰ってきた彼は、クマのぬいぐるみを脇に抱えたまま自室へ向かう。


 玄関の前には、ヒイラギのリースまで飾られていた。

 一瞬、帰るべき場所を間違えたのかといぶかしむ。


 だが、鍵を開けると、鳴海が嬉しそうに迎え出てきた。



「Happy Holidays!」



 もちろん二人とも休暇中などではない。

 ただの季節の挨拶だ。



 いつものように帰宅のハグとキスを受けると、桐生は鳴海にクマのぬいぐるみを差し出す。

 40センチほどの、もくもくとした茶色いボディ。首には赤いリボンがついている。

 鳴海はわざとらしく両手を口に当て、アメリカ人のジェスチャーを正確にトレースして喜びを表現した。

 受け取り、すぐ素に戻る。



「どうしたの、これ」

「雄馬くんにいただいてな」

「ああ、クランケの」

「今日、一時帰宅だったんだ」



 次のバチスタ手術の患者は、まだ9歳の子供だ。

 そして桐生は、つい4日前に、帰国して初めての術死を経験したばかり。

 その表情は未だ冴えないままだった。



「年が明けたらすぐオペだ。

 体調が心配だったんだが、どうしても帰りたいと言っていてな」



 子供の願いを叶えた報酬が、このクマのぬいぐるみだった。

 生真面目な桐生は、患者からの寄贈品は受け取れないと律儀に断ったが、

 しょげかえった表情には勝てなかった。彼は子供に甘いのだ。 



「よかったね。

 クリスマスはやっぱり、家族と過ごさなくちゃいけない」

「うわ」



 居間に入った途端、桐生は驚きの声を上げる。

 そこには、完璧なクリスマスがあった。



「パーティーでも開いたのか?」

「まさか。二人でお祝いするためだよ」



 サーモンのムースにクラッカー、ローストビーフ。

 ブッシュドノエルに、丸ごとのターキーまである。

 どう見ても二人分の量ではない。



 子供の身長ほどのクリスマスツリーには、電飾と貝殻のオーナメントが飾られ、

 その下には色とりどりのプレゼントが山を築いている。

 1ダースはありそうだ。


 
「これ、どうしたんだ」



 リボンがかかった箱に伸ばしかけた手を、鳴海はぺしりと叩いた。



「だめだよ義兄さん。

 明日の朝まで待たなくちゃ」

「お前が用意したのか?」

「だって、クリスマスじゃないか」



 当然のごとく答える鳴海に、桐生は思い当たる節があった。

 数週間前から、やたらと欲しいものを尋ねてきていたのだ。

 手術と術死を挟んだ桐生は当然それどころではなく、適当に答えたことしか覚えていない。



「すまない、リョウ。私は何も用意してないんだ」

「もう、もらったよ」



 鳴海が、クマと握手する。

 桐生は脱ぎかけたコートにもう一度袖を通す。



「ちょっと出かけてくるよ。

 どこか、開いてる店くらいあるだろう」

「いいって。僕は義兄さんと過ごせればそれで充分なんだから。

 日が変わる前に帰ってきてくれてよかった」



 最初の年くらいは出なさいと言われたにも関わらず、鳴海は忘年会に顔を出さなかった。

 ――何をしたかったのかと思えば、クリスマスの準備か。

 華やかな食卓に、桐生は改めて目を向ける。


 待つ時間を持て余したのか、赤ワインとクラッカーがわずかに減っていた。

 鳴海が器用に七面鳥を切り分けながら、シャンパンを取ってきてくれと桐生にねだる。












 料理は、やはり二人には多すぎたようだ。

 半分以上残したディナーをほったらかしたまま、鳴海は電飾が縁取る窓の外を見つめている。

 夜空はどんよりと曇っていた。トナカイの鼻の光も通しそうにない。



「寒いクリスマスなんて久しぶりだね」

「そうだな」



 ターキーにラップをかけながら桐生が頷く。

 しばらくは七面鳥三昧になりそうだ。



「雪、降らないかな」



 呟く鳴海の声は、子供っぽい期待に満ちていた。


 フロリダは、サンタクロースがアロハを着て歩くような都市だ。

 日本の冬に文句ばかり言っていた鳴海が、今は寒さを楽しんでいるように見える。

 その落差に、桐生は苦笑した。



「桜宮はこれでも暖かいほうだぞ。

 雪は無理だろう」

「こんなに寒いのに?

 なんだか信じられないな」

「十年の間に、日本の気候を忘れたんじゃないのか」

「それは義兄さんも同じじゃないか」

「そうだな。夏があんなに短いだなんて、とっくに忘れていたよ」

「あの暑さが向こうでは当たり前だったからね。

 夏がずっと続くんじゃないかと、勘違いしそうになる」



 何か、贈れるものがあればいいのに。

 鳴海の靴下に、こっそりつめこめる何かが。

 そう考えてはいたが、桐生は鳴海の望みを知らない。

 あげられるようなものも、思いつかなかった。



「リョウは、欲しいものはないのか?」



 桐生の問いに、窓を息で曇らせながら、鳴海が答える。



「――もう、何もないよ。充分だ。

 来年もこうして義兄さんとクリスマスを過ごせれば、あとはもう、何もいらない」



 桐生は鳴海の肩を抱いた。

 その目が見ているものを知ろうとしたが、窓の外はただ、暗い夜が広がっているだけだった。



「それは来年の話だろう。

 今欲しいものを教えてやらないと、サンタクロースも困るんじゃないのか」

「義兄さんの願いは?」



 問い返され、桐生は考える。

 叶いそうに無い望みは、もはや今は望むまい。



「これから先のオペが、無事成功してくれれば、私も何もいらないな」



 桐生の真摯な言葉に、鳴海は穏やかな笑顔になった。



「義兄さんの願いはきっと叶うよ」















 でも本当は、サンタクロースなんていないんだ。



 暖かいベッドに潜りこみ、明日のために眠る桐生を見つめながら、鳴海は心の中で囁く。



 いたとしたって、僕らのところに来るはずもない。






 去年のクリスマスは急変患者のために、桐生はこの時間帯もまだサザンクロス病院にいた。

 外した指輪を持て余す姉と差し向かいに、冷えてゆくディナーの前で、鳴海は義理の兄を待ち続けていた。



 ――サンタクロースなんていないし、本当に欲しいものは決して誰もくれない。

 ――そして、本当にあげたいものは、もう渡すことができない。



 あの呟きは、姉の言葉だったろうか。

 それとも、自分の言葉だったか、鳴海はもう思い出せなくなっている。



 柔らかい毛布に包まれながら、鳴海はとりとめもなく考え続けた。

 今年のクリスマスは完璧だっただろうか。

 去年の姉さんが支度していたような、素晴らしいクリスマスになっていただろうか。


 別れた妻からクリスマスカードが来ないことを、義兄は不審がったりしないだろうか。

 灰皿に残っていた燃え滓が、隠していたものを燃やした跡だと、彼に気づかれずに済んだだろうか。



 こんなに寒いのに、どうして雪が降らないんだろう。















 ベッドで眠る二人の、ささやかな願いが叶えられることは無かったし、サンタクロースもいないかもしれない。

 それでもその夜、確かに奇跡は起きていた。






 冬の長い夜が明ける前の、ひときわ静かな時間。

 道行く影も無い街の上に、暗い灰色の空から、白片が音もなく零れ落ちた。

 雲からの長い旅路の果てに、最初のひとひらがアスファルトに融ける。






 その夜、桜宮に雪が降った。






 もっとも、それに気づいたのは宿直の神経内科医と、

 畜舎の中でいつかの死を待つ犬たちだけだった。



 神経内科医はカーテンの隙間から憂鬱そうに空を見上げると、寒さをぼやいて仮眠室のベッドに戻り、

 犬たちは来ないあるじに伝えるべく、懸命に空に向かって吼えたてた。

 夜が明ける前に雪は雨に変わり、欠片も残さず世界を冷たい水に浸した。






 それでも、雪は降ったのだ。






 見えぬ目を開くこともなく、

 動かぬ手を癒すこともなく、






 小さな奇跡は誰も救わぬまま、眠り続ける街の上へと、ひととき降り頻った。












                                                            END.







Miracle of Sakuramiya